一日ひきこもっていました

漫画を読んだり、ニコニコでTASを見たり、三国志大戦のカードの整理をしたりしました。
カードを整理して気づいたのですが、僕はC廖化や、C程遠志などの、主要なC・UCカードをけっこう持っていませんでした。ちょっと唖然としましたね。
たぶん、C廖化などは自分で引いて「もう持ってるからいいや」と思って捨てていると思うんですよ。こんなに管理が行き届いていなかったとは思いませんでした。



そんなこんなで一日引きこもったわけですが、実は驚いたことにあまり癒された気がしません。
学校があったころは、ほとんど常時「引きこもりたい」と思ってました。
しかし実際に引きこもってみると、そんなにいいもんでもないなと思ってしまいます。かえって疲れるというか。


人間、生産的なことをしないと生きる価値がないとは考えていません。
ただ、社会で生きる中で刷り込まれた評価として、生産>非生産という図式が自分の中に存在しているんでしょうね。それが引きこもるという行為に対してネガティブなイメージを与えているんだろうと思います。


これに加え、今日はハチクロを読んでしまったんですよね。引きこもってハチクロを読んでいると、人との関わりを絶ったこの状況と、ハチクロの人間関係の濃密さとの対比を否が応にも迫られてしまい、余計にくたびれてしまいます。


話は少しそれますが、ハチクロの人間関係を見ていると、自分が身を置いている環境というのはかなり「薄い」ものでしかないのではないか、と思えてきます。単にハチクロが濃いだけなのかもしれませんが。
自分の周りで真剣な話し合いというのもめったに起こりませんし、さらにいうと、それが事前に避けられている印象もあります。


もちろん、意図的にそうした状況を作り出すことを求めているのではありません。
ただ、互いに本音でいいたいことがあっても、表面上の人間関係を取り繕うとするあまり、サラリと笑い話で済ませてしまうような風習があるのであれば、それは少しさびしい気もします。
他人と強い人間関係を築くとなれば、やはり自分の本音はそのまま相手に伝えるべきだと思います。そして、それに対して放たれる相手からの本音も、真剣に受け止める。
そうした会話のキャッチボールを繰り返すことではじめて、強固な人間関係が築かれるのだと思います。


こう考えると、やはり会話のキャッチボールは大事だなと再確認してしまいます。
相手の投げたボールをキャッチして投げ返さずに、ひたすら自分のボールだけ投げ続けるようでは、キャッチボールの相手方も次第にうんざりしてきますよね(この場合、まずキャッチボールが成立しているかどうかを議論する必要がある気もします)。
そして最悪なのは、このようないびつなキャッチボールに疲れるあまり、相手もまた放たれたボールを受け止めなくなることです。これでは互いが互いのボールを投げつけあうだけであって、キャッチボールが成立しているとみる余地はまったくありません。傍目から見ても不毛です。


会話のキャッチボールなんてものは、人間関係構築のイロハとして小学生の段階で教え込まれるものです。しかし、これをかなりの程度実践できていない人や、まったく無視している人も相当います。僕の両親でさえ少しそういうところがあります。
しかし、これでは相手の話を無視するのとほとんど同じです。自分の話を無視されると、一般的にはあまり良い感情を抱きませんよね。それと似たようなことをする人がけっこういるというのは、あまり好ましい状況ではないのではないかと思います。
これが行き過ぎる場合には、こちらも対処療法的に、わざとあからさまにキャッチボールを放棄することで問題の所在を明らかにしようとすることもあります。
しかし、これをしていると本当に「自分は何をやっているんだろう」と、むなしくなることもしばしばです。


無論、僕自身にもそういう部分がありえることはまったく否定できないと思います。ただ、少なくともきちんとした会話のキャッチボールを実践していこうという意識は持つようにしています。
相手の放った言動にかみ合った対応をしようとか、話が終わっていないにも関わらず無理やり自分の話したい話題に持ち込まないようにしようとか。
文章にするとなんだか当たり前のことのようにも思えますが、実はなかなかできないことなのかもしれませんし、意図的に実践することも必要なんじゃないかと思います。



なんてことを、ハチクロを読みながら考えていました。
あとは理花さんがきれいとか、はぐみに惚れる竹本くんがイミフとか、そういうことを考えながら読んでました。
ハチクロはかなり面白いですので、何か漫画を読みたいな、という人には購入をオススメしたいです。
老若男女楽しめると思います。