生かされて。

 1994年に起こった、「ルワンダ虐殺」を生き延びたツチ族の女性の手記。フツ族によるツチ族の虐殺の様子が克明に描かれています。この虐殺において、80万人以上のツチ族が殺されました。想像を絶する規模だというほかありません。
 しかも重ねて異常なのは、これがナチスドイツのように、軍隊によって行われたのではなく、市民の手によって行われたということです。フツ族の市民がツチ族の市民を殺すという図式ですね。それまで仲良くしていたお隣さんからいきなり襲われるという感じです。


 両部族が、どうしてここまで対立してしまったのかは、よくわかりません。一部の声の大きな者の発言に扇動され、それが口コミで瞬く間に拡散、増幅され、このような異常事態が導かれたのでしょうか。だとしたら、扇動の恐ろしさを、これまでかなり軽視していたことになります。認識を改めなければなりません。
 あとは、民度の問題でしょうか。いくら扇動がつよい影響力をもっているからといって、同じことが日本で起こるとは考えにくいです。人を殺してはならない、暴力を用いてはならないという規範が、それなりに浸透していると思われるからです。 逆に、ルワンダではそれが十分ではなかったからこそ、扇動によって虐殺が引き起こされてしまったのでしょう。アフリカは長年、ヨーロッパ諸国の植民地として奴隷的処遇に服してきたので、民度が低いのも仕方がないのかもしれません。


 それにしても、殺される方としては、民度が低いから仕方がないとか言ってられないでしょう。「ノルウェイの森」の永沢さんは、

 

「自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士だ」


 と仰ってますが、これは紳士に限らず、大人であれば誰でも守るべき行動規範だと思います。そうした意識もなく、なんとなくツチ族を殺した方がいいから虐殺に参加するというのは、民度が低いという理由だけで簡単に許容できません。
 もちろん、虐殺に参加しなかったら攻撃されるから、という緊急避難的な理由で、虐殺に参加した人もいるでしょう。このような場合は、もちろん別の考慮が必要になるのであって、攻撃的性格を帯びた集団の危険性が浮き彫りになった結果だというほかありません。これは軽々に非難することはできないでしょう。深い考察が必要なのだと思います。


 あとは、主人公であるイマキュレーの、精神活動にも興味を引かれました。彼女は、敬虔なカトリック教徒で、困難に直面したとき、必ず神(イエスの場合もあります)とのコンタクトを試みて、精神安定を図っています。北斗の拳をも超える異常事態の中、平常心を保つためには、なんらかの精神的なケアが必須だと思いますが、宗教はかなり効果覿面のようです。むしろ、困難に立ち向かうときにこそ、うまく神とコンタクトをとることができるらしく、効用もうなぎ登り、という感じです。
 本当によくできたシステムだと思います。失敗や不幸を全肯定してくれるし、不安感も取り除いてくれます。宗教も、うまいこと使えば人生の難易度をある程度下げてくれそうですね。


 ただ気にかかったのは、イマキュレーはかなり広い範囲で宗教を行動規範としており、また神の存在による自己肯定の方法を心得ているため、ともすれば自分勝手な発想をも神の名の下に全肯定し、外部に悪影響を与えてしまわないかということです。作中でも、それは両論あり得るのではないかという行動に対して、神の啓示を前提として、即座に一義的な解答を与えている一面も見られます。これが外部と関係のない行為ならもちろん問題はないですが、イマキュレーがそうした線引きをしっかりすることができているのかは、ちょっと不安になってしまう有様でした。
 宗教とは、うまくつきあっていきたいものですね。


生かされて。

生かされて。